あの頃のわたしと会話するブログ

60年以上生きてみて過去の自分と語り合うブログ

今が一番

過去の自分と会話する、ということで始めたブログで昔のことをつらつら書こうかと思ったのですが。もう16年以上続けているメインブログがあってそちらには「今」を書き綴っています。

過去には「あんなこともあった、こんなこともあった」といろいろありますが、若い時は歳を取るとなにもいいことがない、なんて感じることもあったけど。

50歳を過ぎてからがぜん人生が楽しくなりました。なんだか少しずつふっきれてきて。

 

今年も元旦から大きな地震があって、被害に遭われた方々には言葉もありません。

 

これまでも大きな地震があったり、原発事故があったり、悲惨な事件や事故があったり、海外では戦争があったり、その一方で昔からは信じられないような技術の進歩があって。

今現在生きていられることには感謝しかありません。

 

「若い時は良かった」

なんてこれっぽっちも思いません。

今は学ぶことが楽しくてたまりません。

昔から英語オタクではあったのですが、昨年から韓国語も少し真面目に始めて、こちらも楽しくなってきたところです。

 

アポロ11号の月面着陸は1969年のことだったんですね。

学校の体育館で先生から話があったような気がします。

「君たちは21世紀を生きるんだ」

みたいなことをよく言われていたような気も。

 

アメリカでロケットの設計をしている人と最近スカイプでよく話します。

なんだか不思議。

 

 

複複式学級?

小学校まで行くには山を越えて行くか川を渡っていくしかなくて、山道は昼でも暗くて動物や鳥の声が聞こえて、たまに道端に蛇がいたり。

小さい川だったけど、渡し船みたいので、川から帰る時は向こう岸から「お〜い」って叫ぶと家の人が迎えに来てくれる。

冬は吹雪の時は何人かでかたまって雪をこいで行く。

 

村の人口は少ないから小学校と中学校が一緒だった。

クラスは複複式で、1、2、3年と4、5、6年とか、2、5、6年と1、3、4年とか、とにかく3学年が一緒に授業を受けていた。

私の学年は私の他は男子が二人で合計3人だった。

45分の授業を3学年でやるんだから単純に考えても15分しかない。

しかも美術専門の教師の時は美術しか授業をしなくてあとはすべて「自習」だった。

生徒どおしで教えあったり、グループで教科書読んだり。

まぁもちろん中にはちゃんと授業をしてくれた教師もいて、その中の一人は国語の女の先生でよく詩を書いたりした。

その時に私が書いた詩を地方の新聞社に送ってくれてそれが載ったりした。

 

私は初めからなぜか勉強は好きだった。

どの教師だったか「毎日2時間は勉強しろ」なんて言うのを聞いて、まじめに家でも勉強した。電気もままならなくてランプやろうそくの下でもした。(この記憶はあってるのかな?)

明治生まれの祖父は

「おまえたちには親も金も何もないし与えてもやれないが、教育だけは平等だから勉強しろ」

みたいなことを小さい時から言われていて、その言葉通り大学まで行かせてもらった。

それは本当に感謝している。「女に教育は必要ない」なんて言う親もいた時代に。

 

小さな学校だったけど小さな図書室はあって、私はそこに入り浸って日本文学全集やら世界文学全集やら手あたり次第に読んだ。本の中にいる時は幸せだった。

祖母は「本なんか読んでないで手伝いをしろ」というところもあったから、隠れて暗いところでも本を読み続けていたらテキメンに目が悪くなって小学校高学年からメガネが必要になった。

 

ともかくそのころから活字中毒。とにかく文字を読んでいたかった。

 

 

 

 

北海道の山の中

祖父母の家というのは北海道の山の中だった。

農家で米やら野菜やらを作っていて、牛が10頭くらいいて、鶏がいて、馬もいた。

朝から乳搾りやらなにやらで忙しかった。

おかげで食べるものはすべて自前で採れたてだった。

今から思えば贅沢なことだったんだけど、牛乳は搾りたて、卵は産みたて、野菜は採れたて、という今では望むべくもない食生活だった。

でも、それ全部自分たちで育てるわけだからたいへんだった。

子供の時から手伝いもさせられた。

その頃の農作業の記憶は断片的だけど妙にいつまでも忘れない。

動物が苦手だったから正直あまり楽しい記憶はない。

鶏小屋に卵をとりに行くのは恐怖だったし、

部屋の中をかけまわるヒヨコを捕まえるのも恐怖でしかなかった。

牛のつなぎかえもこわかった。

そんなだったからよく「役に立たない」と言われていた。

田植えや稲刈りも手伝わされたし、もちろん畑仕事も。

まぁその山の中にいたのは小学校までだったからまだよかったかも。

 

今になってみると貴重な経験だったけど、二度としたくはない。

 

 

 

人生最初の記憶

人生で最初の記憶は

3歳の時の父親のお葬式

と、長いこと思い込んでいましたが、果たして実際の記憶なのか、後から周りの大人に聞かされた記憶なのか、今となってはわかりません。

 

「ほら、⚪️⚪️ちゃん、絵を入れてあげようね」

と誰かに言われて、棺に絵を入れたような。

 

「亡くなる前の夜に、何度も起き出してきては母親に叱られていた。」

とは、たまたま前日に訪れていた祖父から聞かされたか。

 

父は当時の国鉄の職員で、祖父と汽車に乗った時に車掌姿でにこにこと切符を確認していた、

という記憶も怪しいけど。

 

3歳までの写真はそれでなくとも少なく、父親に抱かれているものは1枚もなく、母親に抱かれているものさえ、赤ん坊の時の1枚くらいだ。

 

死因は「脳溢血」と聞かされている。

祖父(母親の父)に抱かれて息を引き取ったらしい。

 

まだ34歳。突然の死だった。

もちろん当時の私には何が起きているのかわからなかった。

若い母親には3歳の私と1歳にもならない弟が残された。

当然のことながら、子供二人をどうするか、は大問題だったことだろう。

初めから母親が二人を育てる、という選択肢はなかったんだろうな、と今思うけど、多分ずっとそんな気がしていたかもしれない。

 

知らない夫婦が会いに来た朧な記憶があって、多分あれは養子にするかどうか、みたいなことだったのかな。

 

父方の実家にも行っていたけど、私はそこの祖母(父の母)と合わなくて、ひどく嫌っていた。いとこたちとは一緒に遊んだりもしていたような気がするけど。私は当時は母方の祖母が好きだったから、その悪口を言われたのが理由かもしれない。

母方の祖父が迎えに来て、帰り際に

「またおいで」

と言われたのに

「もう来ない!」

と、言ったらしい。

自分の昔の記憶では「死んじゃえ!」と言ったような気もして、なんて酷いことを言ったものだと思う。だから随分たってから本当に亡くなったことを知らされた時は胸が痛んだ。実際その家にはその後行った記憶がない。(あったとしても憶えていない)

別れ際にひどい言葉を投げたりひどい態度を取ったりするのはよそう。

 

ともかく、弟と私は母方の祖父母に育てられることになった。

 

 

あの頃の私と会話したい

Hatenaでは初めまして。

ブログが出始めた頃からいくつかのブログを渡り歩き、ここ15年ほどはメインブログに日々のあれこれを綴っています。

ひょんなことからこちらでもIDを作りましたが、そうすると読むだけではなく自分でもブログを開設したくなりました。

あえて別ブログを作って書きたいことは何かと思った時、今までに心の中で繰り返し浮かんでくる過去の風景や過去の自分の姿を形にしてみようかと思い立ちました。

還暦もとうにこえた今、現在の自分を想像することもできなかった過去の自分、若い頃には「年を取ったらつまらない老人になるだけ」と不遜にも思い込んでいたあの頃の私に

「年を重ねるのも悪くないよ。私は今が一番幸せよ。」

と伝えたい。

という自分の回顧録のような備忘録のようなブログになりそうです。